昨今は物事を基本から学び短期間で吸収して初歩的レベルから脱却する、そういう学習そのものへの嫌悪を持つ若者が多いと聞く。時間的に縛られる事への抵抗感、あるいは自分探し、ゆとり状態への帰属意識、または何ものにも縛られない自由な状態こそが理想的な状態という、まるで現実には不適合な願望に心囚われ、今目の前に発生する人の流れ、人々の声、業務の責務などに集中できなくなっている人も居る。
普段から自分は真面目に生きいて何ら他人に迷惑かけてはいないし問題もない、と言うが実際はどうだろうか?
自分の認識で間違いなく終了した仕事でも上位の人間が見ればあちこちに不細工な状況が露わになるのが常だ。
人々は真面目さを要求されて生きているわけではない。それは只々、真面目さを発揮しなければ成果を得られないと知っているからだ。
不真面目に仕事をさぼり、適当にいい加減に働いている人が居る。その人は
だいたい外部の人には当たりが良く好人物のように錯覚させてしまう横芸的才能があったりする。そして常に、いかにして楽に仕事するかを考えている。そしていざ期日が定められた場合は別人のように仕事を進めてしまう。
こういう人は、真面目が身に付いているのだ。だから、不真面目に見えても結果的にはそれは演出に過ぎないとわかる。
反対に、必死こいて仕事して全然余裕無い人が見たら。その人は仕事に忙殺されて他の人の言動について観察したり考慮することがおろそかになりがちだ。そして、結果的に肝心な部分を確認し忘れる。すると、その作業はやり直しとなり結果的に仕事をやってないと同じかそれ以下に印象の悪い事となり、次回から仕事に呼ばれる事がなくなるだろう。結局、その人は真面目が身に付いてなかったのだ。
真面目な様は辛気臭い。そして時に
バカバカしくも見えるかもしれない。
だが、本当の馬鹿は今目に映り込んだ映像に感じることがそれを表す言葉の意味の全てだと思い込む。
間違ってはいけない。本当は許されない。それを最初から意識するかしないか、ここら辺で人間が2種類になる。
あなたは、それでも不真面目に生きるのが良いと思うだろうか?
真面目を身につけて先へ行こう。
格好だけの真面目さは不真面目の自由気ままな魅力に負ける。出来ない人は
真面目にやるような振りをしているだけで、結果的に時間に間に合わない。本人は真面目にやってるつもりでも、結果的に不真面目なのだ。
だからこそ、言葉の意味を理解するほんの少しの頭脳のゆとり状態は必要だ。
ゆとりの意味を、履き違えている人がまだまだ多い。
真面目が身に付いていないから幸せを掴めないのだ。
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