幸せを感じる時間は万人共通じゃない。幸せはどこで感じるのか?それの答えはみんな知ってるけど、それを感じる部分を頭で制御できないところに問題がある。例えば、あなたが誰かを好きになったとしよう。その相手は、普段は係われる状況に居て普通に遭遇できる人なのだろうか? あなたは、その人の事をただ見ているだけかもしれない。それでも、友達から「恋でもしてるのかな?」と聞かれたら「うん」と答えるに違いない。すでにあなたの心はあなたの知性の制御を振り切って
恋の対象へと転がり始めているだろう。
実際はただ見ているだけで何一つ会話すらしていない。それでも、心が希望している方向にしかあなたの喜ぶことはなくなってゆく。例えばあなたに現在交際相手が居てそれなりに充実した季節を過ごしたとしても、あなたがその交際相手以外誰も見えないくらいに心掴まれていない限り、心はあなたが根本的に欲している存在を探して転がろうとするだろう。そのとき、その交際相手に引き留める魅力がなければどうなるだろう。そうやって、幾人もの異性を渡り歩く行為を昔の人々は白い眼で見てきたものだ。しかし満足できない理由の全ては心が何を求めてきたのかを放ったらかしにして手当たり次第に情愛関係になり、結局心に響くものが足りなくて傷を負うその痛ましいまでの愚かさでなくて何だろうか?
今日も流されて嘆きの島にたどり着く女性たちがいる。胸張って宣言できるような誇りも見つからない男達も同じ空間に居る。嘆きの果てに更なる漂流を誰一人望む者はいないけれど、心を放置して感情の好き嫌いのままに流される愚かさに親しむなら結果はわかりきったことになるしかない。
今日も、心は転がり続ける。
収まるべき存在の傍らに収まる日まで。
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