毎日は万民に同じように訪れる。誰かにとってはいつも通りの日常を纏って。他の誰かには不穏な陰を背後に忍ばせながら。我々、という意識を皆さんは常に意識はしないだろう。常に意識するのは「私は」「俺は」だ。
今そこにある共通の話題に乗っかって盛り上がる事で縮まったお互いの距離感とは別に、
縮まる事の無い何かを自分との間に感じる場合がある。お互いの意思の疎通が覚束ないのは表面上のこと。気持ちさえ伝わるなら次回からは本当の対話ができるだろう。問題はそこら辺の心情の感応ができない相手の時。心の奥に他人に対して接近を拒むものがある人は過去に何らかのトラウマが云々という話は今では多くの人々の共通認識、つまり常識と化している。ようやくみんなが一斉に過去の悪弊を破棄する時が来たと言うのは言い過ぎだろうか?
流されてきた意識。見過ごされてきた機会。
皆の無意識の海に沈んでいる共同幻想。これを一斉に呼び覚ます時に何が起こるのか?
あなたの周りにいる孤独な人々を観察してみよう。彼らは、きっと願っていることだろう、「俺たちが、ずっとこのまま孤独であることは、許しがたい」
人は孤独に耐えられない生きもの。振り払ってもまとわりついて離れない寂寞は、あなたに何を示してきたのか? そこからいったいどんな真実が見えるのだろう?
我々は、何処かから流されて(たぶんエデンの園のような完全なる世界)現在、さまざまな抑圧に圧迫される島のような限界ある狭小で窮屈な息苦しさに纏わり付かれながら生活している。人間の、生身の弱さ、老いと劣化と時間に追われてゆく運命と、その意味が分からないという精神における不完全さ。我々全ては未完の器に過ぎない、その到達すべき必然とは何かを、今後も追ってゆきたい。心ある人々とともに。
そして真に流される事をやめた人は更なる漂流の前に天に助けられてゆくだろう。天は誰かを代理人のように選択するからだ。
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